信長から信頼されながら「疑念」により討たれた津田信澄
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第67回
■信澄の血縁が生んだ「疑念」
信澄の父信勝(信行)は、織田信秀と土田御前(どたごぜん)との間に生まれています。信長の同腹の弟にあたり、お市(いち)や信包も母を同じくすると言われています。
信秀は死に臨んで、自身の居城であった末森城を信長でなく信勝に譲っており、織田家の後継者が曖昧に見えるような処置をしていました。そのため、信勝は柴田勝家たちに支えられ、兄信長と対立するようになり、弾正忠家の当主を名乗ります。
一度は許されたものの、その後も信勝は龍泉寺城の築城や織田信安(のぶやす)への内通など、「疑念」を呼ぶような行動が見られるようになったため、清州城にて暗殺されてしまいます。しかし、遺児の信澄は謀反人の子として処分されることなく、柴田勝家の元で養育され、逆に元服後は織田家の一門衆として信長に重用されていきました。
そして、1578年頃には信長の命により、頭角を表してきた重臣明智光秀の娘を娶(めと)っています。同じころに細川忠興(ほそかわただおき)も正室としてお玉を迎えており、信澄は織田家の重臣間の縁戚関係に組み込まれていきます。
しかし、本能寺で岳父である光秀が謀反を起こしたことで、娘婿である信澄もこれに呼応するのではないかという「疑念」を抱かれてしまいます。信長によって暗殺された信勝の嫡子であるという事も、「疑念」に大きく影響していたのかもしれません。